最近の静岡県立浜松南高等学校全景

        僕らはこの学校で青春時代の第一歩を踏み出しました。

このページでは、僕らのバンド仲間、チェルシー芳川君のエッセイを紹介
させていただきます。芳川君とは7年前に再会し、その後
「米津ビーチボーイズ」というバンドを組んでさまざまな場所でステージを供に
してきました。今でも楽器を持って集まれば昔の歌とギャグで盛り上ります。
コピーライターである彼は最近エッセイにも専門分野を広げ、賞をもらったり、
放送局で紹介されたりとそのマルチタレントぶりをいかんなく発揮している
才能豊かな粋人です。KAZとのステージ上での活躍は「再結成後」のページをご覧下さい。

    「友との思い出をつくる歌」
                                                 芳川峰生

 人には必ずお気に入りの歌がある。私にも何曲か大好きな歌があるが、一曲だけ選びなさい、と言われたら「海は恋してる」を挙げる。これはもう三十年以上も前の曲で。私がこの歌と出会ったのは高校一年生のときだった。私は父の転勤で一学期だけを信州松本の高校で過ごし、二学期から浜松の高校に通い始めていた。
 ある日、体育の授業の後半はグラウンドの石拾いだった。みんな数人ずつのグループに分かれ、丸くなっておしゃべりをしながら作業をしていたが、転校生の私はまだ友達もなく、一人ポツンと小石を拾っていた。その時、すぐ近くにいた四、五人のグループがギターがどうの、アンプがどうの、というような話をしているのが耳に入ってきた。中学生のころからギターをやっていた私は、思わずそのグループに接近して行くと、その話は文化祭のバンド演奏のことだった。「君もギターやるの」。「うん、ちょっとね」。高校生が友達をつくるのにはこれで十分だった。私は同じクラスの仲間でつくるバンドに入り、文化祭に出演することになった。さっそく練習が始まったが、そのとき、メンバーの一人がこれをやってみないかと、歌い出したのが「海は恋してる」だった。私は一回聞いてすっかりこの曲のとりこになってしまった。信州で生まれ育った私は海への憧れが強かったのだろうか、それとも、この高校は海に近い所にあったため、授業でも、仲間とも、よく浜に行ったものだが、その印象がこの曲と重なりあっていたのか、高校三年間はずっとこの曲が私の隣にいた。

 今から七年前、私はサラリーマンを辞めてフリーになった。そのとき偶然にも、高校時代いっしょにバンドをやっていたY君も独立して自分の店を持った。それまでは同じ浜松にいながらほとんど会うこともなかったのに、この奇遇が縁で、また付き合いが始まった。そしてどちらからともなく「また、やってみようか」ということになって、バンド活動も再開した。実に二十年ぶりの復活だった。回りの人には「あまり暇だったから」と答えていたが、ほんとうはバブル崩壊後の不景気の真っ只中で独立してしまったため、不安でしょうがなかった。そのため、気心の知れた昔の仲間と大きな声でなつかしのフォークソングを歌ってなんとか元気を出そうとしていたのだ。きっとY君も同じだったと思う。しばらくすると、高校の同窓会への出演依頼が舞い込んで来た。二人だけでは心もとないので、前々からくどいていた同級生にも参加してもらい、念願の四人編成のバンドで高校卒業以来初の大きなステージに立った。バンド名は米津ビーチボーイズ。キャッチフレーズは「アコースティックギターのすがすがしさとフラつくハーモニーのだらしなさ」。震える足と声で歌った一曲目はもちろん「海は恋してる」だった。
 この曲はときどきカラオケで歌うことがある。だがなぜかしっくりいかない。どうしてかな、と考えてわかった。回りにいつものメンバーがいないからだ。フラつくハーモニーがないからだ。ニキビ面の顔からシワが増えた顔へと友の様子はずいぶん変わってしまったが、この曲にはそんなニカニカ顔の友がいて、初めて私の「海は恋してる」になる。
 来年二十一世紀最初のお正月に高校の同窓会が開催される。幹事は順番でちょうど我々の学年が担当することになっており、いま、準備が着々と進められている。テーマは「ずっと青春」。私もこの歌とともにずっと青春を続けられたらいいな、と願っている。私にとって「海は恋してる」は思い出の曲ではない。友との思い出をつくる歌なのだ。

このエッセイは、2000年10月17日、地元放送局「FMハロー」モーニングエッセイ
でオンエアされました。エッセイの後で流れた曲はもちろん「海は恋してる」でした。

         

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